母の旅立ち 解放

by naoko on 2016年2月17日

 

母は沖縄の人だった。そのことが母の人生に大きな影を投げかけ、私にも影響した。が、それは、最後には二人に大きな解放をもたらした。それをつなぐのは「直子」という私の名前だ。

 

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貧しい家庭に生まれた母は、義務教育を受けただけで、征服者の国日本へ出稼ぎに来た。希望にあふれる17歳の少女を待っていたのは、沖縄人を人間以下のものとする激しい差別と蔑みだった。沖縄人であるがゆえに、働き口は見つからない。母は、困窮した少女を狙う卑劣な男の餌食になり、レイプされた挙句、それをネタに、さらに出身地をバラすとも脅され、男の言うなりになり続けた。なんとか逃れるため遠くに見つけた働き口は、女性を搾取する紡績工場だった。

 

少女は歯を食いしばって長時間労働に耐え、日本で生きていくために看護婦の資格をとった。その間に、自分を丸ごと受け止め、出身地を気にしない、心から信頼できる人に出会った。が、少女は、傷ものになってしまっている自分の身を恥じ、天にも昇る彼の求婚を断って、 泣く泣く別離という地獄の道を選んだ。

 

看護婦としての職場は、避病院と呼ばれていた、多くの人が嫌う法定伝染病の隔離病院の住み込みだった。(これにも差別が絡んでいるかもしれない)少女はそこで自分の父親くらいの年齢の寡夫に出会った。傷ものの自分が、起死回生のホームランを打つには、この人以外にない、と彼女は思った。彼は老齢に近いし、病気がち。自分と同じ傷ものだから、自分の若さをもってすれば、出身地や傷ものであることは相殺されるかもしれない。その上彼は日本人。子供を授かって、母親になれれば、一人前の人間とみなしてもらえるだろう。藁にもすがる思いで、少女は残された最後の可能性に賭けた。

 

先妻の子供たちは、父親が、自分たちと同年齢で「人間以下の」沖縄人と結婚したことに激怒し、お腹に宿った赤ん坊を堕ろすよう迫った。が、少女は、人間になりたい一心で、子供を守った。赤ん坊は、守られながら、その引き換えに、母親の唯一の希望、唯一の味方として、彼女を守り、沖縄人としての恥辱を全て解消する使命を与えられていた。

 

こうして私が誕生した。老齢で病弱な寡夫は、老後のために若い女性は好都合だったが、再度親になり、責任を引き受ける準備はなかった。だから赤ん坊に名前をつけるのを拒んだ。母は私に「尚子」という名をくれ、父は私をそう命名した。が、役所に持って行くと、その字は人名用漢字にないという理由で拒否された。別の名前を考えて出直すよう勧める係官に、父は、その件を早く切り上げるため「どんな漢字ならいいのか?」と尋ね、提示された幾つかの候補を全部聞くまでもなく、「最初のでいい」と答えた。それが「直子」だった。

 

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が、父の筆になる命名の紙には「尚子」と書かれている。「これがお前だ」と渡されたその紙を見る度に、一体この人は誰なのだろう?と思った。その名前は一度も使ったことがないので、自分だとは思えない。

 

一方、母からは「あなたに名前をつけてあげたのは私だ」といつも恩を着せられた。

 

ある時母は、子供の私に面と向かって言った。「あなたが欲しかったのはね、私が一人前の人間だと認めてもらうためだったの」思いがけない言葉だったが、母の日常の言動から、そうに違いないと、痛く納得した。母は、先妻の子供たちや社会全体に対して、沖縄人の自分でも「一人前の」母親になれることを証明しようと躍起だった。そして母のその思いを完全に理解し、母のために「母の母」として生きることを私に期待した。だから私は、母の期待を先取りし、あらゆる面で良い子でなければならなかった。子供が親の痛みをわからないように、母は、「母である」幼児の私が、父やアルコール依存症の腹違いの兄から激しい暴力を受けていても、かばってくれたことはなかった。

 

そのため、子供の頃から、これが自分だとして使っている「直子」という名前は、私が誰からも愛されていないことを告げる呪いのように感じられてならなかった。名前を使う度、呼ばれる度に(叩かれたのもあって)落ち着かないものを感じてしまうのだった。

 

だから私は、自分を、そして愛を探さなければならなかった。

 

私の自分探しは、母から歓迎されない。私が結婚を考えていた頃、父が亡くなった。母は、当然私が結婚などご破算にして、一家の大黒柱になるものと思っていたようだ。だから結婚を巡って諍いになり、母は私を「裏切り者」と罵った。切り札の罵りにもひるまず、娘が結婚して自分の影響力の及ばぬ所へ行ってしまうのを見るのは、母には耐られなかったに違いない。母にとっては、生涯の理解者 ・守り手を失うのを体験するよりは、自分の方から親子の縁を切っておく方が容易かったのだろう。(当時はそんなことは全くわからなかったけれど)

 

興味深いことに、父を物理的に失い、「勘当」によって母を心理的に失ったことで、私は二人を客観的に眺め、親としての役割を剥がした生身の人として見ることができるようになった。

 

病弱で老齢の父は、体力に自信がないために、幼児の私を見ると、親としての責任を果たせない苛立ちに「こいつさえいなければ」と手が出たのだろう。母には、私に何かにつけ恩を着せ、「母の母」としての役割を思い出させる必要があったのだ。依って立つ人がいなければどうにもならないほど、自分が空虚で無力だと思い知らされていたから。

 

長い勘当の期間に、私は自分の傷を手当てし、同じ傷を持つ両親を発見し、人間として連帯を持った。自分を受け入れ愛した分だけ、二人を愛せるようになり始めた。

 

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癒しと愛の旅がかなり進んだ頃、沖縄に住んだことのあるという学生がお喋りにやってきた。大好きな沖縄のことを色々話した後、彼女は、琉球国は歴代、尚家によって治められてきたのだと言った。「尚家?ひょっとして、母がくれたのは?」征服者の国日本で散々辱めをうけた母は、人間になるための手段となった我が子に、沖縄の魂ともいうべき琉球王家の名をつけたのだった!恥辱を超えて、誇り高く生きる。私の名前に込められた母の願いを初めて知って、心が震えた。この願いは、娘だけでなく、母自身に、つまり、一人の人間として生まれ変わる自分自身にむけたものであったかもしれない。

 

母は、勘当を解く代わりに痴呆になって私を呼び戻した。

 

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昨年11月に沖縄本島を訪問した際、450年続いた琉球国王「尚家」の歴史に触れる機会があった。国民の尊敬を集める名君が多くいたようで、母の願いに再び触れる思いがした。実家の祭壇の前で手を合わせ、先祖に挨拶した際、こういうことが私の中を駆け巡っていた。

 

私は一度も「尚子」という名前を使ったことがない。だから母もまた、自分がつけた名前を我が子が使うのを一度も見たことがなかったのだ。どんな思いだったのだろう?

 

この短い旅から帰った夜、見せた写真に母の「節電モード」が崩れたのだった。母は、自分がつけた名前に娘がようやくつながり、それをしっかり生き始めたのを知ったに違いない。そして、母もまた、長年の恥辱を乗り越え、誇り高く自由に羽ばたくため、人生の最終章を気品を持って歩き始めたのだろう。

 

 

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母の旅立ち 陽だまり

by naoko on 2016年2月10日

 

母は、周りをハラハラさせながら、山と言われた一週間を生き延びた。そればかりでなく、二週目の半ばを過ぎた頃からは、ほんの少しではあるけれど、安定の兆しを見せ始めた!そして三週目の終わり頃には、つながれていた多機能モニターを、緊急入院してきた重篤の患者さんに「貸し」だし、その後ついに、点滴や酸素はそのままだが、個室から4人部屋に引っ越した。

 

看護師さんに名前を呼ばれて「はい」と答える母の低い声を妹が聞いたのは、この後すぐのことだ。約一月ぶりに聞く母の声に妹は興奮した。

 

時間に制限のない個室とは違い、4人部屋では、面会は午後1時から8時までと決められている。そのため、妹の負担は半減し、メールのやりとりも約半分に減った。それからの一週間、酸素レベルが安定し、熱も下がって妹も安心したのか、携帯を家に置き忘れ、メールをするのも忘れるという事態が起こるまでになった。便りのないのは良い便りだ。

 

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それだけではない。翌朝、一番に飛び込んできた妹からのメールにはこう書かれていた。「今晩は。母さんは頑張っています。顔を撫でていたらありがとうって声が聞こえました。うとうとしていた時天ぷら美味しいね。と言ったのでエビ?ウンウンいか?首を横に振っています。‥‥」母と会話ができたのだ!天ぷらは母の大好物。まだ水さえ口に入れられない状態だが、気分が良くなり、おいしかったのを思い出したのだろう。食べたいと思ったのかもしれない。妹の喜びが伝わって来る。私も嬉しい。

 

病状が安定し始めた頃から、折に触れ妹には、母と一緒にいる時、心と魂でたくさん話をしてね、と伝えていた。が、今は、お喋りもできる!話題はこんなたわいないことでも、キャッチボールができるのとできないのとでは雲泥の差だ!ただただ嬉しかった。

 

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二日後、面会時間が午後になったため顔を合わすことがなくなった主治医が、週末をひかえて、夕方回診にきてくれた。その日、母はほぼ一日中、目を開けて大きな声で色々お喋りしていたらしい。入れ歯がないので内容はよくわからないが、妹が覗き込むと「こんにちは!」と挨拶したり、「ゴーヤとサツマイモ、食べると美味しいね」と言ったりしたそうだ。両方とも母の故郷沖縄の代表的な食べものだ。元気だった頃、サツマイモは嫌いだとあまり口にしなかったのだが、本当は好きだったのかもしれない、それにしても食べ物の話が多いなあ、と微笑ましい思いだった。主治医の先生は「部屋を変わってからも、今のところ落ち着いていますね」と言って出て行かれた。

 

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メールを読んで、私の脳裏にちらりと疑問がよぎった。カナダに来て16年、ずっと終末緩和ケアフロアでボランティアをしてきた私は、患者さんの多くが、亡くなる前にまるで寛解したかのような時を持ったり、興奮状態になったりされるのを見てきたからだ。ここしばらくの母の状態、そしてこの日の母の動きは、それに当たるのでは?だとすると?と感じたのだ。けれど、私自身も母の小康状態が嬉しく、母と会話できるのを喜ぶ妹が愛おしく、多くのご家族が奇跡を信じたように、私の中にも、このまま少しずつ回復していくのではないか、そうなって欲しいという願いが自然に沸き起こり、客観的な状況把握はかき消された。

 

翌週の母は、相変わらずお喋りができ、看護師さんに「おはよう」「ありがとう」と的確に言葉をかけた。妹はこれまで通り、病室に入るとまず「ちゅらさんにしようね」と言いながら母の顔を丁寧に洗い、クリームをつけ、(ちゅらさん:沖縄の言葉で、美しい、綺麗という意味)「お姉ちゃんも一緒にいるからね」と話しかけながらオイルをつけて母との1日を始めた。ベッドの横に腰を下ろし、母のむくんだ手足をさすり、気持ちよくなってうとうとする母を眺めては、髪や顔を撫でていた。時折母に酸素が必要になるなど、細かなことはあったものの、おおむね平和な毎日が続いた。私への連絡メールの中身は短くなり、やりとりの回数も減り、メールが来るのも滞りがちになった。週の終わりには、病院側も母の安定した回復ぶりに、長期療養病棟への移送の手続きを始めた。

 

月曜の朝、目覚めた私はいつものように、まず枕元のガラス瓶に手を伸ばし、スプーンで中のココナツオイルをすくった。オイルは今日でおしまいになるはずだった。軽くすくったにもかかわらず、カシャッという金属性の高く軽い音がして、ガラス瓶が割れた。しかも、スプーンの形そのままにガラスがすっぽ抜けた感じに。

 

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ココナツオイルでうがいを始めながら、これはなんか変だなあ、と携帯に手を伸ばした。

 

「母さんが亡くなりました」夜の間に送られた予期せぬメールが目に飛び込んだ。ああ!やっぱり!じゃあこれがお願いしておいたお知らせなのだ!

 

その日の朝、目覚めた母は、やってきた看護師さんにいつも通り「おはよう」と挨拶した。一連の処置を済ませた看護師は、母の新しい部屋を準備するため、階上のフロアに向かった。その間に母の脈が急に落ちたのだった。

 

緊急連絡を受けた妹が、徒歩3分の病院に駆けつけた時には、母の顔色はすでになく、脈も非常に弱くなっていた。母は妹が来たのを知り、その手を握り返した。看護師さんがうまい具合に(?)席を外してくれた隙に、妹は母の口にルルドの聖水をふくませ、第三の目にフランキンセンスオイルを塗った。その後母の手を取って、一緒に「今も臨終の時も我らのために祈り給え」という聖母への祈りを唱え続けた。

 

40分後、苦しむこともなく、祈りの中で母は旅立った。

 

 

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